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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-05-03 02:02:19 (223 ヒット)

  「イエスの愛しておられた者」    聖 書:イザヤ書1章11〜20節(旧約061頁)

                            ヨハネによる福音書13章21〜30節(新約195頁)

                         交 読:詩編147編(交読詩編164頁)

                         讃美歌:7,32,52,448,77,26

【説教の参考に】
    主イエスは、「心を騒がせ、断言された」と記されています。なぜユダが裏切るようなことを主イエスはお許しになったのだろうか。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」と記されています。どうして主イエスはそれを阻止なさらないのだろう。という疑問が湧いてきます。しかし、放蕩息子の父親は、息子が遠い国に行くのをとめませんでした。むしろ神は自由のうちにすべてが行われることを望まれるのです。そうでなければ、人間は、強制されて良いことをすることになります。強制されてするならば、それは良いことをすることにはならないのです。神は、一人一人に自由な人格として対しておられるのです。ユダの対極にある人物として、ヨハネ福音書は「イエスの愛しておられた者」を登場させています。これは誰のことを言っているのかについては、聖書学者の間で長年、議論されていて決着を見ていないようですが、ユダを代表する「闇につける勢力」と、「イエスの愛しておられた者」に代表される「光につける勢力」の対立の構図がここにはあります。サタンとは世俗主義、神に敵対する者と考えると、現代に生きる私たちにも無縁のことではありません。しかし、ユダの罪を背負われたのは主イエスなのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-25 20:08:20 (217 ヒット)

  「弟子の足を洗う」          聖 書:ヨハネによる福音書13章1−20節(新約194頁)

                        交 読:詩編146編(交読詩編163頁)

                        讃美歌:6,31,51,543,26

【説教の参考に】
    主イエスは夕食から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取ってご自分の腰にまとい、それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始めたのです。これが主イエスの謙遜です。これは僕のする仕事です。ペトロにしてみたら本当にびっくりしたと思います。主イエスがなぜ僕にならなければならないのか。しかもなぜわたしの僕になるのか。主イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたのです。主イエスが、人間の泥足を洗うとは、ただの謙遜の行為ではありません。それは、イエス・キリストの十字架の行為を表しています。
    ところで、主イエスはユダの足をも洗ったのであろうか。ヨハネ福音書にはユダが除外されたということは、記していません。当然ユダの足をも洗っておられるのですが、足を洗ったことは、ユダについてだけは無駄だった、とおっしゃっているのではありません。清くないユダの足をも自分は洗ったのだと、そのことを語っておられるのです。主イエスは「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」という新しい掟を示されています。人間には不可能なことも、十字架の主イエスによって清くされた私たちは、あきらめてはならないと思うのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-23 01:11:55 (220 ヒット)

  「民の不信」             聖 書:ヨハネによる福音書12種37−50節(新約193頁)

                       交 読:詩編145編(交読詩編162頁)

                       讃美歌:4,30,50,467,24

【説教の参考に】
     ヨハネによる福音書には、信仰と不信仰の例が交互に出てきます。人間がどれほど堕落し、不信仰だと言っても、それは決して神のご支配から離れるものではありません。ヨハネはイスラエルの堕落においても、神の統治を仰ぎ見ています。その意味は別な言葉で言えば、「人間は不信仰を自分でつくることはできません。私たちは、悪や反逆で神に対抗できるほど、偉くはないのです。」もしそうなら不信仰の中にも、神の不思議なお働きがあるのではないか。それは恵みではないでしょうか。ここで引用しているイザヤ書53章1節以下の言葉や、6章10節の言葉はイエス・キリストを預言しています。預言者イザヤは、人間の不信仰がついにキリストにゆきつくことを預言しているのです。それなら人間の不信仰は自分に責任はないのか。確かに、不信仰の罪はありますが、それに上回る父なる神の愛を拒むほどの罪を人間は犯せないのです。神の恵みはそれをはるかに越えています。主イエスは言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。・・・わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-18 23:46:00 (224 ヒット)

 「見ずして信ずる者は幸い」    聖書:出エジプト記3章1-6節(旧約96頁)
                         ヨハネによる福音書20章19-29節(新約210頁)

                         交読:詩編144編(交読詩編161頁)
                         讃美歌:3,39(6),61,532,29


【説教の参考に】
  主イエスの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、集まっていた家の戸を閉めて、外に出ようとしませんでした。そこに、主イエスがやってきて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。復活の主は、不安の真っただ中に立って、私たちに平和を告げます。私たち人間は周囲を恐れ、人のうわさを恐れ、死を恐れ、不安の中に暮らしています。忙しさに紛らわせて不安を忘れようとしていますが、敏感な人は、それを感じて悩み、恐れます。いずれにしても、皆、不安を抱えていますから、同じです。イエス・キリストの復活とは、この人間存在の根本に横たわる不安のところに、神が訪れた出来事ですから、復活の主は、まず、平和(平安)があるように、と言われたのです。
  トマスは懐疑主義者でありますが、そのトマスを主は愛しておられ、彼のために祈っておられたと思います。ですから、主はトマスだけに話かけられたのです。恐れのために、信仰の弱くなっていたトマスを目指して主はお出でになった。自分の信仰は駄目だと思っている私たちにとって、何と大きな慰めではないでしょうか。トマスの言った「私の主よ、私の神よ」という言葉は、形をかえて、あらゆる教会の信仰告白になりました。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-18 23:21:57 (220 ヒット)

 「イエス・キリストの復活」    聖書:サムエル記下23章1-5節(旧約521頁)
                        マルコによる福音書16章1-8節(新約97頁)
                       交読:詩編143編(交読詩編159頁)
                       讃美歌:2,39(2),325,326,78,28

【説教の参考に】
  マルコ福音書は復活の朝の出来事をマリアたち三人の婦人に焦点を合わせて記しています。男たちは皆、逃げ去っていたからです。婦人たちが墓に入ると、真っ白な衣をまとった若者が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」とよみがえりを告げ、また、「あの方は、かねて言われたとおり、先にガリラヤに行かれて弟子たちにお会いになる」という知らせを告げました。しかし、婦人たちは震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。と言うのです。マルコによる福音書は、ここで終わっています。婦人たちは神様のご命令を忘れたかと思われるほどにうろたえています。なぜ、そうだったのだろうか。思いがけないことにぶつかると、人は恐れるものです。人間は、ただ沈黙するよりほかないことがここに起こっているのです。しかし、それはまた、素晴らしい喜びの始まりです。人間としては、想像もつかなかったこと、これが主イエスの「救いの出来事」なのです。「神の子イエス・キリストの福音」というのは、そういう恐れを呼び起こすようなものであったのです。恐れることは、聖書ではしばしば生ける神に出会う経験なのです。神の前に恐れることが無くなってはいないだろうか。


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