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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-03-07 21:53:57 (55 ヒット)

  「主の光に引き上げられ」     聖 書:エゼキエル書37章11〜14節(旧約1357頁)

                            ヨハネによる福音書12章27〜36節(新約192頁)

                       交 読:詩編138編(交読詩編155頁)

                       讃美歌:19,39(6),54,503,28

【説教の参考に】
    「今、わたしは心騒ぐ」と主イエスは言われています。今主イエスは、十字架を前に心騒いでいます。イエス・キリストは決して揺らぐこともなく、騒ぐこともない鉄のような意志を与えられた超人ではありません。わたしたちの弱さを思いやることのできないようなお方ではありません。全てのことについてわたしたちと同じように試練に会われたのです。
    主イエスは「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32節)と言われています。「地上から上げられる」ことは十字架に上げられるということと同時に、天に上る道に主イエスがお立ちになることを現しています。「すべての人を主イエスのもとに引き寄せてくださる」というこの言葉から、説教者スポルジョンは「すばらしい不思議な磁石」という題で説教しています。主イエスのお言葉の磁石がどんなに多くの人々の慰めになったであろうかと、繰り返し語っています。なぜ十字架につけられた罪人としての辱めの死を受けることが、天に挙げられるほどの光栄あることになるのか。それは主イエス・キリストの「父の栄光」が現れる時だからとだといいます。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-03-07 21:46:27 (54 ヒット)

  「一粒の麦の恵み」         聖 書:イザヤ書52章13〜53章5節(旧約1149頁)

                           ヨハネによる福音書12章20〜26節(新約192頁)

                       交 読:詩編137編」(交読詩編154頁)

                       讃美歌:13,39(2),53,513,27

【説教の参考に】
    過越祭にエルサレムに来ていた人々の中に何人かのギリシャ人がいたというのです。彼らはフィリポ、アンデレを通して主イエスにお目にかかりたいと頼んだというのです。このことから主イエスの名はヨーロッパの一角にすでに伝わっていたということが推測されます。主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」とお答えになり、この一粒の麦のたとえをお語りになりました。
    主イエスは一粒の麦の種が地中で変容し発芽し育つ、そして多くの実をもたらすことを観察しています。一粒の麦が死ぬことの中にご自分の苦難を通して栄光につながることを語っています。十字架の死から人間の救いを成し遂げ、十字架から教会をつくられます。教会はこの十字架の下にあります。飾りや単なるデザインではありません。
    イザヤ書52章、53章は預言者が神の救いはいったいどこに現れるのかということを、凝縮した表現で言い表しています。栄光に立つどころかむしろ逆転したところに、人間の歴史の最も低く深いところに御子がお立ちになる。その犠牲がなければ恵みに生きる道はなかったのです。私たちのためにイエスは一粒の麦になられた。その実りです。そのことを私たちはどこまで受け止めているのでしょう
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-03-07 21:39:55 (46 ヒット)

  「まことの王イエス」         聖 書:詩編48編9〜15節 (旧約881頁)

                            ヨハネによる福音書12章12〜19節(新約192頁)

                        詩 編:136編(交読詩編153頁)

                        讃美歌:17,39(1),52,202,26

【説教の参考に】
    主イエスのエルサレム入城の記事は、福音書の全てが記しています。主イエスの時代より200年ほど前、エルサレムを支配してユダヤ民族の信教の自由を奪ったシリアのセレウコス朝に対して戦ったマカバイ家の英雄たちがエルサレムに勝利の凱旋をしたときの様子と、主イエスのエルサレム入城の描写が似ていると言われます。民衆は棕櫚の枝を掲げて「ホサナ、ホサナ」(「今、救ってください」という意味)と歓呼の声を上げて迎えたのです。違うのは、軍馬にまたがった英雄たちの入城ではなく、ロバに乗った平和の主イエスの入城の違いです。人々は主イエスを、民族の指導者、リーダーに、或いは王になるように期待したのです。主イエスはそれを拒否なさった。その期待が外れたので、その叫びが、直ぐ「十字架に付けよ、十字架に付けよ」という声に変わったのです。
    ヨハネ福音書が他の福音書と違うのは、ベタニアでのラザロの復活と、イエスのエルサレム入城の伝承資料を一つのストーリーとしてまとめていることです。また、イエスは当時多くいた奇跡行為者の一人という理解から、イエスこそ「まことのキリスト」。地上を歩む神という信仰理解をはっきりと示しているのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-02-09 01:13:26 (40 ヒット)

  「マリアの捧げ物」          聖 書:エゼキエル書13章20〜23節 (旧約1313頁)

                            ヨハネによる福音書12章1〜11節 (新約191頁)

                        交 読:詩編135編 (交読詩編152頁)

                        讃美歌:16,35,51,567,78,25

【説教の参考に】
    この箇所には二人の人物の対比がなされています。マリアとマルタの二人の人物の対比と、もう一つは、マリアと主イエスを裏切ったユダの対比です。マリアが高価なナルドの香油をイエスの足に塗る行為は、当時の習慣としては異例中の異例のことでした。マリアは主イエスの十字架の贖いのために香油を注いだのです。主イエスの葬りの備えの時として、マリアは理解したのです。それは神に聴く姿勢から可能になることです。それに対して、マルタは11章でラザロの墓の前で主イエスが「その石を取りのけなさい」と言われると、「主よ、四日もたっていますから、もう臭います」と言ったのです。マルタは主イエスの言葉を拒んだのです。マルタは当時の一般の人の考え方と同じく主イエスを「奇跡行為者」としてしか理解できなかったのです。単に忙しく立ち働くことを主イエスは批判したのではありません。
    もう一つの対比で、イスカリオテのユダは「そんな無駄な行為を何故するのか」と一見反論し難いことを言います。ユダのものの考え方は私たちの考え方や行為と相通じるものがあります。自分に都合のよいことだけをもっともらしく主張するのは日常茶飯事のことです。ユダは貧しい者に心配りしたのではなく、自分の利益のために言っているのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-02-09 00:59:04 (43 ヒット)

  「人生の分水嶺」           聖 書:創世記1章1〜5節 (旧約1頁)

                           ヨハネによる福音書11章45〜57節 (新約190頁)

                        交 読:詩編134編 (交読詩編151頁)

                        讃美歌:15,33,50,466,24

【説教の参考に】
    ヨハネ福音書は全部で21章ですから、11章というのはちょうど真ん中になります。山登りで言えば頂上に達して、そこから向こう側の目的地に向けて降り始めると言うことが出来ます。ちょうどその真ん中の部分に、主イエスを殺すということを当時のユダヤ教の最高法院が決定したことが記されています。12章以下は主イエスのご受難の物語が語られていくことになります。明るい光輝く頂から死の闇が支配している中に主イエスが降りて行こうとなさいます。主イエスの十字架への道はなぜなされなければならなかったのかを、私たちは問い続けなければなりません。
    力の論理と正義の論理は、いつの時代、どこの国でも言われることです。大祭司カイアファは「イエスが国民のために死ぬ」という論理を展開しています。このイエスに対する怒りの決定は、かえって神の栄光のためになりました。神は、まさにカイアファの論理を用い給うのです。「全体のために一人が死ぬ」。それは同じです。しかし、根本的に違う点があります。カイアファは、自分たちが生き残るための論理でした。しかし、かみの論理は違うのです。全人類が救われるために、独り子イエス・キリストが死ぬのです。
 


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