メインメニュー
最新ニュース
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-02-09 00:50:12 (39 ヒット)

  「ラザロの復活」           聖 書:ハバクク書2章1〜5節 (旧約1465頁)

                            ヨハネによる福音書11章38〜44節( 新約190頁)

                       交 読:詩編133編 (交読詩編151頁)

                       讃美歌:14,32,61,446,29

【説教の参考に】
    ラザロの死とよみがえりをめぐる記事のポイントが幾つかあります。その一つは、私たちの生きることも死ぬことも、神の栄光が現されるためであるということを、キリストご自身が、地上の生涯を通して私たちに示されたことです。ベトザタの池のほとりで、38年間も孤独の状態で過ごした病人を癒やされたのも、生まれながら目の不自由な人を癒やされたのも、この人たちを通して神の栄光が現れるためだったと主イエスは言われます。今朝のラザロの復活の記事もそのことと内容の上で深く関係しているのです。主イエスの復活とは質の違う問題です。ラザロは生かされましたが、再び死をむかえます。
    二つ目は主イエスが「あなたの兄弟は復活する」(23節)と言われると、マルタが「終わりの日に復活することは存じております」と言ったことに関係します。終わりの時の事柄が、イエス・キリストにおいて、今、実現しているということが、聖書の伝える信仰です。  宗教多元化の時代にあって、なぜキリスト教でなければならないのかという問いがあります。キリスト者はイエスが示されている神を信じて、その道を歩いている者ということになります。どの神も行き着くところは同じということではないのです
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-12 02:53:46 (56 ヒット)

 

  「涙を流された主イエス」      聖 書:ホセア書11章8〜11節(旧約1416頁)

                            ヨハネによる福音書11章23〜37節(新約189頁)

                        交 読:詩編132編(交読詩編150頁)

                        讃美歌:13,31,29,456,28  

【説教の参考に】
    主イエスは、ラザロのためにマリアが泣き、一緒にいるユダヤ人たちも泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮して、言われた」とヨハネ福音書は記しています。「心に憤りを覚え」と訳されている言葉は、古来、さまざまな解釈がなされていますが、言葉のもともとの意味は馬が激しく鼻を鳴らすというところから来ており、激しい心の動きを示しています。主イエスは何に憤られたのか。主イエスも結局は死に対して無力であったのか、と疑った人々に代表される不信仰に対する憤りなのか。マルタやマリアの中にも見た不信仰に対するものであったのか。あるいは深い悲しみに落とす死の力に対する憤りであったのか。また、「イエスは涙を流された」のはなぜか。神は感傷的な涙を流すことはない、という人もあります。主イエスが憤られ、涙を流されたのは、わたしたち人間の不信仰さに、主イエスが苦しまれたのではありません。十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」という、主イエスの苦悩の祈り、叫びと共通しているのです。すなわち、人間の姿をとられた神の、わたしたち人間との完全な同一性を、主イエスの憤りと流された涙から、わたしたちは読み取らなければならないでしょう。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-12 02:44:48 (62 ヒット)

    「イエスは復活であり命である」    聖 書:イザヤ書40章18〜31節(旧約1125頁)

                             ヨハネによる福音書11章17〜27節(新約189頁)

                          交 読:詩編131(交読詩編150頁)

                          讃美歌:12,30,58,367,81,27 

 【説教の参考に】
    新しい年を迎え、全ての人が祝福された年であるように祈ります。今年もヨハネによる福音書から主の福音のメッセージを聴いてゆきます。
    さて、ラザロが墓に葬られてから既に四日もたっていた、と記されています。当時のユダヤでは葬儀は七日間続いたと言われ、四日を過ぎると蘇生することはないとされたのです。マルタは慰めにきてくれる人々を振り切って、ベタニア村の外まで行って主イエスを迎えたようです。そして「主よ、もしもここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言ったと記されています。この言葉の解釈はしばしば議論になります。主イエスを非難しているのか。ということについてです。「どうして神は、この不幸な私のところに来てくださらないのか」「どうしてこのような苦しみを与えられるのか」という問いは私たちにもあるのです。しかし、マルタの信仰はそこにとどまるものではありません。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(22節)。主イエスがラザロを甦らさなかったとしても、マルタは主イエスを心からなる信頼をもって仰ぎ、主イエスから離れることはなかったのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-11 02:40:28 (60 ヒット)

  「ラザロの病気」           聖 書:イザヤ書59章9〜20節(旧約1158頁)

                            ヨハネによる福音書11章1〜16節(新約188頁)

                       交 読:詩編130編(交読詩編149頁)

                       讃美歌:11,39(6),57,355,25

【説教の参考に】
    ある病人がいた。と聖書は書いています。私たちの中でも病気の話し、病人のことは身近なことです。ここにはラザロという病人の話を通して主イエスの慰めに満ちた話しが記されています。主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われました。生まれつき目の見えない人を通して神の御業を現されたように、ここでも主イエスはラザロを活かされ、神の栄光を現されたのです。
    私たちが病気や、困難、試練に絶望しないで済む道は、イエス・キリストを受け入れることです。まことの神であって、まことの人である主イエスが、愛の神として来てくださった。クリスマスの出来事を感謝で満たされ、受け入れることなのです。
    主イエスはまた、「わたしたちの友ラザロ」と言っています。私たちを「友人」と呼んでくださるのです。この罪深い者たちをも「友人」と呼んでくださる、その神の愛に驚くのです。たとえ死に近づく病床の中でも、絶望の淵にあるような試練の中にあっても、私たちは「友」と呼んでくださる主と共にいることを信じましょう。この1年を恵まれた年として感謝し、新しい年を迎えたいものです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-11 02:33:51 (60 ヒット)

  「さあ、ベツレヘムに行こう」     聖 書:イザヤ書64章1〜11節(旧約1166頁)

                             ルカによる福音書2章8〜20節(新約103頁)

                         交 読:詩編129編(交読詩編149頁)

                         讃美歌:10,39(2),248,256,78,24  

【説教の参考に】
    主イエスは馬小屋の飼い葉桶の中で生まれました。聖書が伝える主イエスの誕生は、最もひどい「どん底」で生まれたということです。それは、罪ある人間社会の中で、どんなひどいところにいる人でも。そこから救いだして、天の国に導く救い主となるためだったのです。
    イエスの時代の羊飼いたちは、住民登録もしていない人たちで、ローマ市民としての権利をまったく認められない人々でした。その羊飼いが、夜、羊を守るために寝ずの番をしていたとき、クリスマスの知らせを伝える天使の声が聞こえました。真っ先にその知らせを聞いたのは、卑しい人々と考えられていたこの羊飼いたちでした。彼らは救い主の誕生を見るために「さあ、ベツレヘムへ行こう」といって出かけたのです。羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られた通りであったので、神をあがめ、また讃美しながら帰っていきました。羊飼いたちは、見たこと、聞いたことを、人々に話したといいます。伝道したということです。私たちも神様のご計画に信頼して、勇気を与えられ、神をあがめ、主キリストの救いの喜びを伝えていこうではありませんか。
 


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 25 »