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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-04-03 14:56:12 (141 ヒット)

  「ベトザタの池」          ヨハネによる福音書5章1〜18節 (新約171頁)


【説教の参考に】
     エルサレムの羊の門の傍らにベトザタという池がありました。日本の池とは違い大きなプールのような池で、5つの回廊があったといいます。そこに38年も病気に悩まされ、横たわっている人がいたと記されています。主イエスはその人に「良くなりたいか」と言われました。この病人は何と答えたでしょう。「わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです」と、周囲の者たちの批判をしています。この病人が望んでいることは、病気が癒されることでしょうが、しかし、本当は、病気よりもっとつらかったことは、自分のことに心を配ってくれる人が誰もいなかったということなのです。隣人のために心を配ることが全く欠けている荒廃の現実が描かれています。人生の最大の不幸は、自分のことを心から思ってくれる人が誰もいないことです。マザー・テレサ女史は、「自分が出来ることは、死んで行く人のために心を配ることです。それしかわたしにはできません。せめてひとりの人が死ぬときだけは、そうしてあげたい」と語っていたといいます。このベトザタの池のほとりの38年間も病床にあった人は、そのような人間の現実を私達に示しているのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-04-03 14:40:59 (70 ヒット)

      「主に支えられる信仰」       ヨハネによる福音書4章43〜54節 (新約171頁)


 【説教の参考に】
     主イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこで二回目のしるしを行われた、と記されています。王の役人、つまり、へロデ王に仕えている一定の権威を持った上級公務員がイエスのもとにやってきて「息子が死にかかっているのでカファルナウムまで下って来て息子をいやしてください。」とお願いしたというのです。今日の御言葉の中心は、主イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と伝えると、その王の役人は「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」という言葉です。ここには見れば信じるという「御利益信仰」を抜け出た信仰が示されています。聖書は「御利益」を否定はしていませんが、御利益が神に代り偶像になることが問題なのです。また逆に、理屈ばかりで観念的な信仰もいただけません。ところが、もう一つの信仰があります。それは、ここにあるように、「見ずして信ずる信仰」です。見ないで信じた時、この役人に、奇跡が神の賜物として起こったのです。主は私たちに「行け」と言われます。私たちはそれを信じて行くだけです。信仰とは、信じて行動することまで含みます。信ずることは、生きることです。しかも、ただ生きることではなく、神と共に生きることです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-20 20:48:27 (63 ヒット)

   「信じること、聞くこと」        ヨハネによる福音書4章39〜42節


【説教の参考に】

    ヤコブの井戸での主イエスとサマリアの婦人との出会いは、今や大きな実を結ぶ時がやってきました。「『わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言したサマリアの婦人の言葉によってイエスを信じた」(39節)人たちは、主イエスのもとにやってきました。そして自分たちのところにとどまるようにと頼んだというのです。先にニコデモとの問答で、観念的な信仰からは「新しく生まれ変わる」ことは難しいと学んだ私たちは、それとは対照的に、ここにおいて信仰とはきわめて単純なものであることを学ぶのです。主イエスに対して「心を開くこと」それだけでよいと語られているのです。主イエスがサマリア人たちと二日間滞在したということは、おそらく彼らの家に泊まり、食事をされたと思われます。サマリア人とは断絶し、同じ食卓につくことはない社会にあって、主イエスのなされたことは、隔ての中垣を取り除き、霊と真理の礼拝へと導かれたのです。
    サマリア人たちは、今や主イエスの言葉を直接聞いて、「この方が本当に世の救い主であると分かった」と告白していることが重要です。ここにおいてサマリアの婦人の果たすべき使命は終わり、舞台から姿を消したのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-20 20:41:41 (73 ヒット)

   「蒔く人も刈る人も喜ぶ」         ヨハネによる福音書4章39〜42節


【説教の参考に】

  主イエスは弟子たちに「わたしはあなたがたの知らない食べ物がある」 (32) と言われました。ここで主イエスは新しい霊の食べ物について語ったのです。先にサマリアの女が、生きた水が分からなかったように、ここでは弟子たちも、霊の食べ物が分かりません。主が言われる霊の食べ物とは「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」 (34節) と言われます。言葉がかみ合っていないようにも思えますが、霊の食べ物とは、私たちが主イエスと出会い、十字架の贖いを知り、新しくされた者として、神のみ旨を実現してゆかなくてはなりません。地上での神の業を継承することが教会の神から委託されている業です。一つは礼拝を守ることであり、第二は福音を伝える、つまり伝道すること、第三は奉仕することです。これはすべてのキリスト者に託されていることです。主イエスが人々に仕えたその内容を、私たちは「主イエスがなしたように」遂行すること。それが主イエスの言われる食べ物です。

  「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と主イエスは言われています。もう手を拱いて傍観している時ではありません。収穫の時が到来したのであるという宣言が、ここでなされているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-02 02:55:40 (61 ヒット)

  「礼拝すべき神」          ヨハネによる福音書4章16〜26節 (新約168頁)


【説教の参考に】

    主イエスはサマリアの女に言われました。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時がくる。今がその時である」(23節)。主イエスはここでご自分を遣わされた父なる神のメッセージを伝えているのです。それは私たちへのメッセージでもあります。父なる神を「霊と真理をもって礼拝する」ことを求めておられるのです。「霊と真理」とは何か。霊は神からのものです。主イエスご自身が霊的な存在です。真理は「まこと」です。私たちの態度です。真実に自分を捧げて神を礼拝することです。この二つが一つとなるところに真実の礼拝があります。礼拝する場所は問題ではないのです。霊と真理をもって礼拝するなら、どんなところでも神は居られるのです。主イエスがご自身の霊を私たちに吹き込んでくださり、この霊によって生きなさいと言われているのです。この霊によって神の言葉が語られるところに教会が生まれ、罪からの解放が生まれます。私たちは神が人間の求めに応えてくださることを求めているが、神が求めておられることに私たちがどれだけ応えることができるかが信仰の問題であることを忘れないようにしたい。


 

 


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