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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-02-09 00:59:04 (43 ヒット)

  「人生の分水嶺」           聖 書:創世記1章1〜5節 (旧約1頁)

                           ヨハネによる福音書11章45〜57節 (新約190頁)

                        交 読:詩編134編 (交読詩編151頁)

                        讃美歌:15,33,50,466,24

【説教の参考に】
    ヨハネ福音書は全部で21章ですから、11章というのはちょうど真ん中になります。山登りで言えば頂上に達して、そこから向こう側の目的地に向けて降り始めると言うことが出来ます。ちょうどその真ん中の部分に、主イエスを殺すということを当時のユダヤ教の最高法院が決定したことが記されています。12章以下は主イエスのご受難の物語が語られていくことになります。明るい光輝く頂から死の闇が支配している中に主イエスが降りて行こうとなさいます。主イエスの十字架への道はなぜなされなければならなかったのかを、私たちは問い続けなければなりません。
    力の論理と正義の論理は、いつの時代、どこの国でも言われることです。大祭司カイアファは「イエスが国民のために死ぬ」という論理を展開しています。このイエスに対する怒りの決定は、かえって神の栄光のためになりました。神は、まさにカイアファの論理を用い給うのです。「全体のために一人が死ぬ」。それは同じです。しかし、根本的に違う点があります。カイアファは、自分たちが生き残るための論理でした。しかし、かみの論理は違うのです。全人類が救われるために、独り子イエス・キリストが死ぬのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-30 22:54:10 (123 ヒット)

 「イエス・キリストの復活」


         聖書:エレミヤ31章31−34節、  マルコ16章1−8節


 


【説教の参考に】

「福音」は「喜ばしいおとずれ」の意味ですが、その「よい知らせ」は週の初めの日の朝早く起こりました。マタイ・マルコ・ルカの3福音書は、「共観福音書」とよばれ、その最も古いものがマルコ福音書です。

マルコ福音書の著者マルコは使徒ペトロの通訳であったと言われますが、彼はペトロが語った主イエスの話を用いて福音書を書きました。マルコは復活の朝の出来事をマリアたち三人の婦人に焦点を合わせて記しています。男たちは皆、逃げ去っていたからです。婦人たちが墓に入ると、真っ白な衣をまとった若者が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」とよみがえりを告げ、また、「あの方は、かねて言われたとおり、先にガリラヤに行かれて弟子たちにお会いになる」という知らせを告げました。イエスのドラマの最後の最後になって、誰もが予期しなかった大逆転が起こりました。それが主イエスの復活です。婦人たちも、その後知らせを聞いた弟子たちも、初めはそれを信じられませんでした。しかし、その事実と意味を悟った時、彼らは喜びに満たされ、それまでの敗北は一転して勝利となり、挫折感は確信に変わり、主の復活の証人として立ち上がったのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-23 19:54:17 (106 ヒット)

   「救い主の沈黙」    (棕櫚の主日)


         聖書:イザヤ書53章6−12節、  マルコ15章1−15節


【説教の参考に】

 ローマ総督ピラトは、主イエスがもはや何もお答えにならなかったので、「不思議に思った」と聖書に記されています。この言葉は、本来「驚いた」と訳した方がよい言葉と言われます。ピラトは主イエスが何も弁明しなかったことに驚いたのです。主イエスが沈黙されると、人々は狂いはじめました。ピラトは正常な判断が出来なくなり、民衆のご機嫌をとり始め自分を守ろうとしました。民衆は、もっと露骨に弱さを現しました。イエスではなくバラバを解放せよと要求したのです。神が沈黙する時、人間は勝手なことを考えはじめます。主イエスの沈黙は、人間の本当の姿を暴露することになりました。ただ、主イエスを裁いたのは人間だけではありません。神の審きがありました。主イエスが沈黙し、裁きを受け入れられたのは、それが神の審きであると知っておられたからです。愚かな人間たちによるイエスの裁きの中で、神の人間に対する審きが行われています。私たちが受けなければならない罪の審きを御子イエスは受けておられる。そしてそこで、本当は審かれるべき私たちの罪を赦してくださっています。そして私たちに、もうお前たちには私が裁かれているような、裁きと滅びへの道はないといわれるのであります。

 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-16 20:32:39 (126 ヒット)

 「地上の住みか」  

      聖書:イザヤ書53章1−5節、 コリントの信徒への手紙(二)5章1−10節

 

【説教の参考に】
パウロは私たちの地上の生活、生命、生涯を幕屋、つまりテントの家と呼んでいます。テントは固定した家のように丈夫ではなく、解体もされますが、無になるわけではありません。同じように、人も「天にある永遠の住みか」へ移される時も、無になるわけではなく、地上の生活は空しくならず、地上のことが力を発揮すると言っています。


又、キリスト者も地上の苦しみにもだえるのですが、地上の生活における罪を断ち切ろうと、地上の着物を脱ぎ捨てるのではなく、「天から与えられる住みかを上に着たいと願う」(2節)ことが大切だとパウロは言っているのです。信仰生活とは、この重ね着の生活にほかなりません。パウロは、私たちの罪が苦しみもだえ、重荷にうめくに至らしめていることを越えて、キリストがこの罪を負い、罪の重荷を自ら背負われた、十字架に至るまでのキリストの受苦による救いの成就を見つめているのです。


私たちは「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。そのことを保証してくださるのが聖霊なる神です。そのために「わたしたちはいつも心強いのです」(6節)。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-09 20:31:21 (109 ヒット)

 「日々に新た」     聖書:コリント(二)4・12−18節


【説教の参考に】

パウロは自分自身を土の器と言い、その中にキリストの福音という宝を納めていると語りました(7節)。だから、艱難があっても「わたしたちは落胆しません」と言い切っています。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(16節)という言葉は、私たちが直面する具体的な悩みや困難を打ち破ります。「外なる人」というのは、土の器であるもろい肉体のことですが、それにとどまらず、生まれながらの性格や欲望なども暗示しています。それらは、ますます衰え、ついに死滅にいたるものです。しかし、「内なる人」、すなわち、土の器に盛られた宝のような、キリストによって新しく生まれた霊なる私たちは、絶えず新たにされ、常に強められていくとパウロは語っているのです。

「外なる人」はいずれ衰えることはさびしいことではありますが、人間としてどうすることもできません。しかし、「内なる人」は、常に、新しい命にうるおされてゆく。それゆえ、現在、どのような艱難に直面しても落胆しないのです。むしろ、それを「一時の軽い艱難」とパウロは言い切ることができたのです。キリスト者は「見えるもの」に幻惑されず、「見えないもの」に目を注ぐのです。

 


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