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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-18 23:10:22 (59 ヒット)

 「私たちを救うイエスの死」   聖書:詩編第22編2-9節(旧約852頁)
                    マルコによる福音書15章33-41節(新約96頁)
                     交読:詩編142編(交読詩編159頁)
                     讃美歌:1,39(1),59,311,27


【説教の参考に】
  主イエスの十字架上の七つの言葉の中で、マルコ福音書とマタイ福音書が伝えている、この言葉、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味だと聖書は記しています。当時のユダヤ人が使っていた日常の言葉であるアラム語がそのまま使われています。この主イエスの言葉をどのように理解し、受け入れたらいいかに関して古来からいろいろに説明されています。代表的な解釈は、これは詩編22編の最初の言葉で、この詩の最後は、絶望で終っていない、だから主イエスは絶望のあまりこの叫びをあげたのではなく、この悩める者の詩編を歌おうとして、最後まで朗唱する前に、息を引き取られたのだという説明です。確かに詩編をそらんじていたであろう主イエスですからそうかもしれません。しかし、神の子が絶望するのでは困るので、この叫びを和らげようとする一切の解釈を受け入れることは出来ないのです。主イエスは、神に捨てられたのです。主イエスは最後の最後まで、父なる神と対面していたのです。主イエスが苦しまれたのは、人類の罪を負う苦しみです。主イエスはまことの人間として生き、罪人として罰を受けるという魂の奥底からの苦しみでありました。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-18 22:56:48 (61 ヒット)

 「人のさばきと神のさばき」  聖書:エレミヤ書33章1-11節(旧約1240頁)
                     マルコによる福音書15章1-20節(新約94頁)
 
                    交読:詩編141編(交読詩編158頁)
                    讃美歌:23,35,58,296,26

【説教の参考に】
  受難節に与えられた今朝のみ言葉は、主イエスが十字架につけられるクライマックスとも言える箇所です。ピラトはローマの総督であり、彼は尋問したが、「イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」という言葉が記されています。この「不思議に思った」と訳されている言葉は、本来「驚いた」と訳した方がよい言葉だと言う人がいます。主イエスの驚くべき沈黙にピラトは驚いたというのです。
  なぜ主イエスは黙っておられたのか。真の王であるならば、すべての人を敵にまわしても主張しもよかったのではないか。しかし、主イエスを裁いたのはピラトや私たち人間だけでなく、神でもあったのです。主イエスが沈黙し、受け入れたのは神の裁きでもあったのです。人間の罪が最も鮮やかに現れて来る裁きを受け入れて、この愚かな人間の裁きの中で、神のイエスに対する審きが行われているのです。主イエスはただ人間の愚かさを許容されたのではなく、神の審きを受け入れておられるのです。
  十字架の意味を考えたい。塔の上にそそり立つ十字架は、「十字架を背負ってイエスに従います」という教会の決意表明ですが、しかし、それは無力の象徴なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-18 22:46:24 (58 ヒット)

 「日々に新た」    
            聖 書:コリントの信徒への手紙(二)4章12〜18節(新約329頁)

            交 読:詩編140編(交読詩編157頁)             
            讃美歌:22,32,57,297,25


【説教の参考に】
 「わたしたちの『外なる人』は衰える」という事は、自然の倣いです。木は腐食し、鉄は錆るように私たちの体、精神は衰えていきます。パウロを襲うあらゆる苦難、人々への様々の心労の中で、どうにもならず衰え弱まるばかりの自分を省みて、「『外なる人』は衰えていくとしても」と告白しているのです。しかし、「『内なる人』は日々新にされていく」とパウロは語るのです。聖書は人間の弱さと破れとそして老いと死に至るその真ん中で、命と新しさを語るのです。
  パウロの言う「内なる人」とは何か。それは精神とか、隠された人格といったことではありません。人間はそれらをどんなに磨いても鍛え上げても本当の救いとはなりません。「内なる人」とは、キリストによって新しく生まれた霊なる人です。洗礼を受けたキリスト者は、そこで停滞していてはいけないのです。キリスト者の生涯とは、洗礼の繰り返しという意味があるのです。日々、キリストと共に死に、キリストと共に新しく生かされていくのです。カルヴァンは「神は、万事が望み通りに運ぶと、私たちは生活の享楽にあまりにも深入りするので、私たちを包んでいるものを少しずつ剥ぎ取って、生への瞑想に誘うのである」と語っています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-03-07 22:16:06 (66 ヒット)

  「山の上の栄光」          聖 書:列王記上19章1〜12節(旧約565頁)

                           ルカによる福音書9章28〜36節(新約123頁) 

                       交 読:詩編139編13〜24節(交読詩編157頁)

                       讃美歌:21,31,56,299,24

【説教の参考に】
    今朝の旧約聖書の御言葉である、預言者エリヤがホレブ山で聞いた神の声は、騒々しい物々しさの中では示されなかったのです。激しい風が起こり、その風の中に主はおられなかった。その後の地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。と記されています。神は、言葉で啓示されるお方、人間に語りかける神なのです。その言葉で語られる神が、新約聖書、ルカ福音書9章28節以下の山の上の変貌の記事でもイエスの弟子たちに語っています。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえたのです。「選ばれた者」という言葉はイザヤ書42章1節にある苦難の僕の歌の一節にある「選び」と同じです。死の苦しみをへて栄光の勝利へとわたしたちを導く主、救済の御業へと主イエスは進まれるのです。しかし、栄光の中で苦難が語られる時、弟子たちは熟睡していたのです。神がなしたもう時、人間は沈黙し、神が語りたもう時、待つ以外にないのです。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-03-07 22:07:13 (54 ヒット)

  「自分の十字架を背負う」      聖 書:イザヤ書45章18〜25節(旧約1136頁)

                             ルカによる福音書9章18〜27節(新約122頁)

                        交 読:詩編139編1〜12節(交読詩編156頁)

                        讃美歌:20,30,55,300,78,29

【説教の参考に】
    主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と言われました。イエス・キリストが、神の子であることは、十字架の苦難と結びついています。したがってキリストの弟子になることは、イエス・キリストを告白して、キリストと共に労苦して生きるということです。ここで述べられている弟子の道は、逆説に満ちています。自分を捨て、神を肯定することが求められます。
    次に大切なことは、自分の十字架を負うことです。私たちの罪のために死んでくださったイエス・キリストの十字架への応答として負うものです。その十字架は、日々、負うものですから、日常生活の中にある十字架です。主イエスが私の罪を負ってくださったように、罪のままの人間を愛することです。その罪にたじろいではならないのです。
最後に、主イエスに従わなくてはなりません。多くの人は、自分の意志に従ったり、お金の力に従ったりします。しかし、それらは、かえって私たちを奴隷にしてしまいます。イエス・キリストのみが、私たちひとり一人を自由にしてくださるのです。
 


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